バプテストQ&A
はじめに「バプテストQ&A」を読まれる方々に
恵泉バプテスト教会は、プロテスタント教会の一教派である「バプテスト」に属する教会です。「バプテスト」(Q2参照)といっても、皆さんにとっては普段あまり耳慣れない言葉です。そのために「バプテスト教会」がキリスト教会かどうか疑問に思っている方もおられるようで、教会の屋根や礼拝堂にある十字架を見てはじめて、「ここはキリスト教会だ!」と分かってもらうこともしばしばです。
日本には、いろいろな信仰的特徴を持った教会があります。おおまかに大別するとカトリック教会と15世紀以降の宗教改革でカトリック教会に抵抗(プロテスト)して誕生したプロテスタント教会です。
バプテスト教会も宗教改革以降に誕生したキリスト教会ですが、
「バプテスト」について少しでも多くの方に理解していただきたいという願いから「バプテストQ&A」を作成しました。このQ&Aをご覧になり、バプテスト教会に少しでも興味を持たれた方は、是非一度恵泉バプテスト教会をお訪ねください。心から歓迎いたします。
【Q−1】「バプテスト」は、いつ頃どのようにして生まれたのですか?
ヨーロッパで宗教改革が始まった17世紀初頭に、イギリスで誕生しました。
16世紀はじめローマ教皇は、サン=ピエトロ大聖堂の改築資金を集めるため、免罪符(注1)を販売しましたが、やがて教会の単なる金集めの手段になっていきました。この免罪符がドイツでも売られるようになったとき、カトリック教会の司祭であったマルティン・ルターは、「魂の救済はただ福音の信仰のみによる」との確信から、免罪符の販売を批判し、ローマ教皇と教会の権威を否定しました。
神聖ローマ皇帝からの自由を求める市民や、教会の重圧にあえぐドイツの都市の人々は、ルターを支持しました。ルターはやがて聖書のドイツ語訳、修道院の廃止など、改革運動を進めます。ルター派と呼ばれる人々はカトリック教会から独立して独自の教会を作るのですが、ルターの教えを広めるために、この頃発明された活版印刷の技術が大変役に立ったと言われています。
ルターの宗教改革から少し遅れて、スイスでも宗教改革がおこります。その中心者であったジャン・カルヴァンはフランス人でしたが、スイスのジュネーブで多くの信者を得ました。彼の教えはスコットランド、フランスにも広まり、そしてイングランドにも広まります。ルターやカルヴァンなどの宗教改革たちは、カトリック教会に抵抗(プロテスト)したことから「プロテスタント」と呼ばれるようになりました。
その頃のイングランドは、カトリック教会から独立し、イギリス国王を教会の最高首長とするイギリス国教会(日本では「聖公会」)が支配していましたが、宗教改革には熱心でありませんでした。そのために国教会から離れて、教会の自律性を主張する人々は迫害され、そのためにオランダやアメリカに移住する人たちも多くありました。
オランダへ移住した人々の中から、1609年頃、幼児洗礼を否定し、みずから信仰告白して再洗礼を行う人々があらわれました。これらの中から、トマス・ヘルウィスを指導者とする人々は、オランダからイギリスに殉教覚悟でもどり、1612年にロンドン郊外にそのグループの最初の教会をたてました。このグループは「普遍(恩恵)救済説」(注2)を唱えるのでジェネラル・バプテスト派と呼ばれ、バプテスト教会の出発点となりました。
(注1)この免罪符を買うことによって罪が許され神の国に入れるとされた、中世のローマ・カトリック教会が発行した証書。
(注2)ジェネラル・バプテスト派による「キリストは万人のために死んだ」という「普遍恩恵救済説」に対し、1630~40年代のロンドンで発生したパテキュラー・バプテスト派は、「キリストは選ばれた者のために死んだ」という「特定恩恵救済説」を主張した
【Q−2】どうして「バプテスト」という名前の教派になったのでしょう?
初期のバプテストの人々は自分たちを「バプテスマを授けられた人々」と名乗っていました。「バプテスマ」とは、イエス・キリストの十字架と復活の救いにあずかり、キリスト者となるために行われる教会の礼典です。バプテスマは一般的には「洗礼」と言われていますが、バプテスト教会以前のキリスト教会の多くはこのバプテスマを、額に水滴を垂らして行う滴礼形式で行い、キリスト者の家庭に生まれた子どもに対して、本人の意思とは関係なく、生まれてまもなく洗礼(幼児洗礼)が行われていました。
バプテスト教会は、イエス・キリストを信じてキリスト者として新しく生きることを象徴的に表現するため、水の中に全身を沈め(体の死と埋葬)、そして引き上げられる(復活)という形式(浸礼)を重んじます。
初期バプテスト教会の分離派と呼ばれたグループが、1642年に最初の「信仰者のバプテスマ」を行ったと言われています。「バプテスマは幼児のためにあるのではなく、告白した信仰者のためにある」と主張し、幼児洗礼を否定し、神様から与えられた恵みを自覚的に受け止め、神と会衆の前でイエスがキリスト(救い主)であると「自らの言葉」で信仰を告白し、その証しとして聖書に基づく浸礼形式のバプテスマを行いました。
このように、全身を水に浸すバプテスマの形にこだわることから、当時の他教派の人たちから「バプテスト」というあだ名で呼ばれ、それがそのまま教会や教派の名前となったのです。
【Q−3】バプテスト教会の特徴とは何でしょう?
■聖書主義
バプテスト教会は、聖霊の導きによって書かれ、イエス・キリストを証言する聖書(旧約聖書と新約聖書)を信仰の唯一の規範とします。そのために、聖書以外の信条・教理などは私たちの信仰を拘束するものではありません。
■信仰者のバプテスマ
キリストの十字架と復活によって生かされていることを自らの信仰とし、イエスがキリスト(救い主)であると自分の言葉で告白し、浸礼によるバプテスマを行います。
※ 恵泉バプテスト教会では、浸礼によるバプテスマを大切にし、それが最も良い方法だと考えていますが、病気や高齢などの理由により、浸礼による方法でバプテスマを受ける事が困難な人の場合は、全身ではなく部分的に水に浸すバプテスマも行っています。また、他教派より教会員として転入会を希望される方について、その人が自覚的な信仰に基づいた信仰告白を伴うバプテスマをされた場合は、その方の受けたバプテスマが浸礼以外の形で行われたものであったとしても、その人にとってそれは一生で一度の悔い改めと救いのしるしであると信じ、転入会の信仰告白のみで教会員として受け入れています。
■万人祭司
イエス・キリストから教会に委託された福音宣教の働きは、教会に連なる一人ひとりのキリスト者によって担われます。説教や礼典(主の晩餐式とバプテスマ式)を行う者は、神学教育が条件にはならないという、宗教改革の原点を主張しています。そのためにバプテスト教会では、身分階級による上下関係を否定してきました。
※ 恵泉バプテスト教会では、「説教」と「礼典」の執行を教会員(信徒)の決議で牧師として立てられた人に委託しています。バプテスト教会は「説教」や「礼典」の執行を行うのは資格ではなく、個人の内的召命により、そのために訓練された人に教会員が「説教」や「礼典」を委託しながら、委託した者を教会員が祈りと応答をもって支えることによって成り立ってきました。ただし、「説教」や「礼典」の執行を牧師だけに限定しているわけではありません。教会員による決定いかんによっては、牧師以外の人に委託することも可能であると考えています。これまで恵泉バプテスト教会では、幾度となく信徒による「説教」が行われ、また信徒による「バプテスマ式」が行われたことがあります。
■会衆政治(民主的な教会運営)
バプテスト教会は、牧師と信徒の間の身分的上下関係や区別はありません。牧師と教会員(バプテスマを受けて教会のメンバーになった者)の働きの違いはありますが、教会運営は、教会員一人ひとりが平等な立場で参加した総会を中心として、責任ある話し合いによって教会の意思が決定されます。
■各個教会主義
バプテスト教会は、各個教会が自主独立の主体で、教会間のいかなる支配関係も認めません。しかし各個教会は、相互に支配・従属の関係に立たず自主独立であるが、同時に他の教会との協力を喜ぶとして、宣教協力体である「日本バプテスト連盟」を結成しています。恵泉バプテスト教会も「福音宣教において他教会との協力を惜しまない」として加盟しています。この「日本バプテスト連盟」はローマ・カトリック教会の「バチカン」(法王庁)に象徴されるように、各個教会に対して上位の機関ではありません。
■教会と国家の分離(政教分離の原則)
政教分離の原則は、17世紀始めに人類史上初めて、バプテスト教会が明らかにしたといわれています(注3)。 社会を治めるもの(国家)とキリストの支配する神の国(教会)とを区別し、国家は教会のことに介入してはならないし、教会はこの世の事柄以外では国家に服従する義務はないと告白します。
これらの特徴は、現代にも息づいています。特に、「神は人を分け隔てなさいません」(ガラテヤ信徒への手紙2章6節)との聖書の言葉から、人間の霊的平等、良心の自由という根拠を求めてきたバプテストは、この世の統治者に対しても、すべての人々に正義と公平を提供することを求めています。
(注3) マックス・ヴェーバー著・大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)232頁
【Q−4】最初のバプテストの担い手はどんな人たちだったのですか?
バプテスト教会が設立された頃のイギリスでは、カトリック教会はもちろんのこと、プロテスタントのイギリス国教会、長老・改革派教会、会衆派教会の牧師たちは、オックスフォード大学やケンブリッジ大学出身者たちでしたが、バプテストの指導者たちは、手工業の職人や小売商人で、毛皮職人、ボタン製造工、仕立て屋、靴下製造工などの信徒たちでした。
バプテストの指導者が世俗の職業に従事する信徒であったことには、二つの理由が考えられます。一つは、教会が小さく貧しく、教会の働きに専任する牧師を招くことができなかったこと。もう一つは、「聖職者と呼ばれる人たちはギリシャ語やラテン語の知識によって聖書を解釈しているにすぎず、神の救いにとって一番大切な『聖霊』をないがしろにしている」と主張していたことです。彼らは、他教派の人々からは「職人説教師」とか桶を講壇代わりにしていたので「桶説教師」と呼ばれ軽蔑されていましたが、その一人、サミュエル・ハウは、「聖霊の教えをもっているなら、無学なものこそ牧師にふさわしいし、救われるのだ」と言っています。
【Q−5】 初代のバプテストの様子はどのようなものだったのですか?
最初の頃のバプテスト説教者の一人、サミュエル・ハウが説教した場所は、居酒屋でした。当時の版画をご覧になれば一目瞭然ですが、ハウは桶(ビヤ樽)を講壇代わりにしていますし、なるほど「馬首亭」という居酒屋の看板がでています。
今でもイギリスではパブには必ず看板がかかっているそうですが、日本流にいえば、赤提灯、縄のれん、といった所でしょう。
当時居酒屋は、ビールの販売以外に、食べ物、取引場所、宿泊施設を提供し、旅行者や移住者はもちろん、庶民にとって職の斡旋や融資など、情報交換や生活の拠点でした。もちろん教会での礼拝も大切に守られていましたが、居酒屋で説教するという姿には、初期のバプテストの人たちの、どんなところでもイエスの福音を伝えたいとの熱い思いを伺うことができます。
【Q−6】 バプテストはどのように日本に伝わったのですか?
日本にバプテストを伝えたのは、アメリカのバプテストの宣教師たちです。
アメリカ合衆国が誕生したころ、ヨーロッパから迫害を逃れてやってきたプロテスタントにとってアメリカは「新天地」ともいうべきところでした。そのため、バプテスト派はもちろん、長老・改革派、会衆派、メソディスト派といったプロテスタント自由教会といわれるいろいろなグループが教勢(信者数)を伸ばしてゆきました。
奴隷制度をめぐってアメリカが南北に分かれて戦いになったころ、アメリカ・バプテストの国内伝道協会が「奴隷所有者を宣教師に指名しない」と決めました。1845年、その決議に反対する者たちが「南部バプテスト連盟」を作りました。一方その決議に賛成する北部のバプテストたちは「アメリカ・バプテスト連盟」を作り、アメリカのバプテストは主にこの二つのグループに分かれました。
バプテスト教会による日本伝道は、1860年に来日したジョナサン・ゴーブルに始まります。人力車を発明したゴーブルは「摩多(マタイ)福音書」を翻訳し、1873年に来日したネーサン・ブラウンはひらがな体で新約聖書を翻訳しました。いずれも「アメリカ・バプテスト連盟」(現在の「日本バプテスト同盟」の宣教母体)派遣の宣教師でした。
「南部バプテスト連盟」は1860年に宣教師を日本に派遣しましたが、船が途中で消息をたち、途上にあった宣教師たちは行方不明となり、日本伝道への祈りはすぐに実現できませんでした。1889年(日本国帝国憲法公布の年)になってJ・Wマッコーラム夫妻とJ・Aブランソン夫妻が「南部バプテスト連盟」派遣の宣教師として初めて来日し、日本での伝道が開始されました。南部バプテスト連盟は、現在の「日本バプテスト連盟」の宣教母体です。
来日したJ・Wマッコーラム夫妻とJ・Aブランソン夫妻は、「アメリカ・バプテスト連盟」との申し合わせにより、九州を中心に伝道活動を進め、日本バプテスト連盟に連なるバプテスト教会が設立されていきました。
【Q−7】 バプテストは「信教の自由・政教分離」を特に大切にしていると言われていますが?
17世紀、幼児洗礼を拒否し、自覚的信仰告白に基づくバプテスマを受けた者の交わりであるバプテスト教会は、そのはじめから「死すべき人間」が支配する国家と、「永遠の生命」であるキリストの支配する神の国のしるしである教会とを区別しました。キリストのみが教会の支配者であり、国家は教会(宗教)の事柄に介入すべきではないし、キリスト者もこの世の事柄以外では国家に服従する義務はないと訴え、バプテスト教会は、史上初めて教会と国家の分離を明確に表明しました。
初代のバプテストの指導者トマス・ヘルウィスは、イギリス国王に対し、「国王は死すべき人間であって、神ではない。・・・もし国王が霊的領主や律法を設けるとしたら、国王は不滅の神になってしまい、死すべき人間ではなくなる」、また「国王よ、人間は自分たちの宗教を自ら選択することにおいて、ほぼ平等であると考えたらいいのです。人間は神の審判の座の前で、自らを擁護して答えるために、自分で立たなければならないからです。その時、国王、もしくは国王から権威を賜っている者たちによってこの宗教を持つように命令、ないし強制されたと弁解したら釈明にならないからです」と訴えました。このようにして、個人の信仰・良心の自由の権利を大切にし、そのために教会と国家の分離(政教分離)をバプテストは訴えました。
【Q−8】 戦前戦中、そして戦後の日本のバプテストは「政教分離」をどのように考えてきたのですか?
大日本帝国憲法第28条は、「日本臣民ハ安寧(あんねい)秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定し、「帝国臣民としての義務を守る限りにおいて」と、限定付きで信教の自由を保障していました。
そのような状況の中、国家が宗教を統制しようという動きに合わせて、1928年に「宗教団体法」案(注4)が議会に提出されましたが、「日本バプテスト西部組合」(「日本バプテスト連盟」の前身。1903年に「日本浸礼教会西部部会」として発足し、1904年に「西南部会」1919年に「日本バプテスト西部組合」と改称)は、「(宗教団体法は)我がバプテストの主張する良心の自由を束縛するもの」として反対声明を出しました。
ところが、日中戦争の際には、「日本バプテスト西部組合」の下瀬加守(しもせかもり)理事長は「神社は宗教にあらず国家の儀礼である」と主張して戦争に協力することを表明し(注5)、国家による教会への介入を認め、自ら政教分離原則を放棄しました。宗教団体法(1939年成立)のもと、1941年にプロテスタント教会が合同した「日本基督教団」が結成され、バプテスト教会もその一部会として結成に参加し、侵略戦争に加担しました。
政教分離原則を自ら放棄した日本の教会は、日本が侵略した地である朝鮮の教会とその信徒にも、「神社は宗教にあらず」として侵略神社への参拝を求めましたが、朝鮮のキリスト者は命を懸けて神社参拝を拒否しました。そのため、1944年にバプテスト(東亜基督教)をはじめ多くのキリスト者が、朝鮮総督府の厳しい弾圧によって命を落としたと伝えられています。
私たちは戦前戦中のバプテスト教会が「政教分離」の原則を捨て、戦争に積極的に加担してきた歴史を決して忘れてはいけません。
敗戦後「日本バプテスト西部組合」に属する個々の教会は「日本基督教団」を離脱し、1947年に日本バプテスト連盟を結成した時、教会の主はイエス・キリストのみであるとの信仰告白を深く受け止めることが出来ませんでした。しかし、再び国のために命を捨てる人間を育てるために、国家が教育を利用し、宗教にも介入しようとする動きがある中で、かつての教会の過ちに気付かされ、過ちを繰り返さないようにと、日本バプテスト連盟は、1982年に「靖国神社問題に対する日本バプテスト連盟の信仰的立場(反ヤスクニ宣言)」、1987年に「日本バプテスト連盟結成40周年に当たって」、1988年に「戦争責任に関する信仰宣言」、2002年に「平和に関する信仰的宣言(平和宣言)」を採択し、バプテストが大切にしてきた信教の自由・政教分離の立場を明らかにしてきました。
特に1967年からくり返し国会に提案された「靖国神社国営化法案」に対しては、「十戒の第一戒で禁じられている疑似神(ぎじしん)を拝することになる。戦争を美化することになる。バプテストの信仰の根幹である政教分離を侵すことになる」ということを理由に、日本バプテスト連盟総会で反対の決議を行うと共に、靖国神社問題特別委員会を設置し、国家が政教分離原則を侵そうとする動きに対して、信仰に基づいた発言をしています。
※ 恵泉バプテスト教会でも日本バプテスト連盟に靖国神社問題特別委員会が設置されたことを受けて、1968年に「社会部」が作られ、以後政教分離の問題について様々な活動を続けています。(ホームページに掲載している、恵泉バプテスト教会信仰告白「教会と国家」、その他「恵泉バプテスト教会の宣言・声明」を参照してください。)
(注4) 宗教界を管理するために、宗教団体として認める目安として「教会数50、信徒数5,000以上が必要」と定めた法律で、1939年に成立。