恵泉バプテスト教会
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教会員の証し

教会員の証し

9/25/2021

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私が初めて聖書を手にしたのは、娘を恵泉バプテスト教会付属めぐみ幼稚園に入園させた事がきっかけです。それまでの私は、目に見えるものしか信じない、という事はありませんでしたが、特定の宗教を持つという事に漠然とした恐れ、ネガティブな感覚を持っていました。

 そんな私が何故教会付属の幼稚園を選んだのかというと、偏に、松村園長先生をはじめとする、めぐみ幼稚園の先生方の、子ども達に向ける眼差し、その眼差しに心を打たれたからです。先生方を支えているものが信仰なのだと、その時はわかりませんでしたが、温かい眼差しの中、たくさんの愛を受け、娘も、その後入園した息子も、3年間とても素晴らしい時間を過ごさせていただきました。その後教会学校にも繋がり、今日まで、いつでも笑顔で迎え入れてくれる場所であることに、心から感謝しています。在園中聖書を読む機会が与えられましたが、イエス様が起こす様々な奇跡を素直に受け入れられず、共感できる部分だけを受け入れ、納得できないところを掘り下げる事なく、その先にあるものに目を向ける事はありませんでした。
 そんな私ですから、娘からバプテスマを受けたいと聞いた時、大変驚き、今すぐ受けるのではなく大人になって、自分の責任で受けたらいい、と思いました。クリスチャンになることで、彼女の人生に何が起こるのか不安でしたし、そのことで彼女の人生を狭めてはいけない、と思ったからです。キリスト教、というより宗教全般に正しい理解がなかった為、宗教は閉鎖的なもの、という偏見を取り除くことができませんでした。
 娘の気持ちを知りたい、という思いで火曜祈祷会に参加させていただきました。そこで聖書を学び、たくさんのお祈りを聞きました。神さまに心のうちを曝け出す祈りの言葉、絞り出される祈りの言葉、近い人だけでなく、遠くの会ったことのない方に心を寄せる平和の祈りもありました。それまで、世の中の悲しいニュースを聞いて、その一瞬、心を痛めるという事はあっても、次から次へと起こる出来事はすぐに私を通り抜けていたので、その“祈る姿”にとても心を揺さぶられました。こういう人達が平和を作っていくのか、私もそんな風に思えたらいいなぁ、そんな風に生きていきたい!と思ったものの、長い間私の口から祈りの言葉は生み出されませんでした。その後、見様見真似で祈るようになりますが、私の口からでる神さまは、到底嘘くさく、とても信じる気持ちにはなれませんでした。皆の祈りとは何かが違う、ずっとそう思っていました。
 そうこうしているうちに娘のバプテスマ式が近づき、娘には、心から、平和をつくりだす人になってほしい、という思いで喜んでバプテスマへ送り出しました。きっと“彼女は”神さまに救われる、信じる者は救われる、といった考えでもありました。私はというと、信じたい気持ちを持ちながらも真っ直ぐ向かえず、心の奥底に信じきれない自分がいる事にも気づいていました。
 そんな日々が続いていましたから、いつしか、私はきっとこのまま変われない、やっぱり大人になってからの信仰って難しい、と諦めるようになっていました。たくさんの方が祈ってくださいましたが、その祈りも時に苦しく、申し訳ない、という気持ちで聞きました。
 ある時、私はある方にずっと心の内にあった疑問をぶつけてみました。
「祈りと現実が埋まらない時はどうしたらいいですか?」
結局、世の中は不平等で理不尽、争いごとは絶えないし、現実の問題は複雑で残酷です。信じたい、平和の中で生きていきたい、そう願っている私の心からも、醜い感情があふれだし、抑えられないのです。誰しも、負の感情が起きない、なんてことはないでしょうから、そういった気持ちと、どう折り合いをつけているのか、現実をどう受け止めているのか聞きたかったのです。
 その方はこうこたえてくださいました。
「祈ったら信じる、祈ったら信じるのです。」
その、神さまを信じて疑わない姿勢に、私は心底驚きました。もっと曖昧な、本音と建て前を使い分けるような、そんなこたえが返ってくる、そう勝手に思い込んでいた自分が恥ずかしくなりました。なんて失礼な事を聞いたのだろう、と申し訳なく、その場から逃げ出したい気持ちになりました。
 口先だけで祈る私との決定的な違いでした。祈る事で隣人を知り、悲しみを共にしようとする姿、変わっていくことを信じ、祈るように生きていくのだ、という決意、私は何も持っていませんでした。祈った相手を知ろうとさえしなかったのです。他人の痛みを引き受ける心なんてほんの少しも持ち合わせていませんでした。私の祈りは、祈ったら終わり、変わる事なんて信じていない、変わる為に何もしようとしない、上っ面の祈り、どこまでも自己中心的な私。
『隣人を自分のように愛しなさい』 マタイによる福音書22:39
 イエス様が言った、この、シンプル且つ困難な教えがこんなにも胸に迫ってきたことはありません。
誰を隣人にするのか? 家族だけ、近くにいる友人だけ、いえ、その家族には自分の感情を押し付け自分勝手な子育てをし、友人にはお互いが傷つかぬよう、当たり障りのない事で誤魔化し続けてきたのではないか、近い人達にさえ隣人になろうともしなかった、こんな私が人を傷つけてきたのだと思いました。争いや不平等をうんでいるのは私だったのです。
愛のない空っぽの私だから、相手に分けられないのです。
 「祈ったら信じる」、そう言い切るその後ろで、神さまがこの私にも
「目を覚ましなさい、変わりなさい」、そう言っているのだと思いました。
その晩、初めて心から神さまに祈りました。
「神さま、どうか私を愛に溢れさせてください。分け合える愛を持てる人にしてください。」
 振り返れば、それまでも神さまと共に歩む人たちと出会っていました。苦しみの中にあっても、神さまから希望を与えられ、励まされ、力強く歩む人たちでした。自分の頑なな心が認めたくなかったのです。
 それから私も、神さまに問われながら、そして問いかけながら過ごしてきました。
これからの自分が分け合える人になる為に、あなたの力が必要です。御言葉で、あなたの愛で私を満たしてください。愛の為に働ける人にしてください。祈るように生きる人になりたい、そう願います。
 これまで何度も何度もイエス様を知らないと言い続け、十字架にかけたこの私にも、神さまは諦めず、声を掛け続けてくださいました。
 イエス様の十字架と復活によって、私は今日生きる事ができるのです。私を救う為、一緒に歩んでくださる為に、イエス様は3日後に復活してくださったのです。その奇跡の出来事を信じます。
 あなたの深い愛に感謝し、皆さんと共に礼拝を守り、主を賛美していきたいと思っています。
教会員 Cさん
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「教会、聖書、イエス・キリストとの出会い」

1/1/2000

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今から28年前の1986年10月、小雨の降る肌寒い夜のことです。就職して3年目の私は、上目黒にあった社員寮を出て、秋の特別集会に出席するために初めて恵泉バプテスト教会を訪れました。集会の講師の関田寛雄先生は、マタイによる福音書の「これらの最も小さいものにしたことは、すなわち私にしたことである。」という箇所から「いと小さきものに」というテーマでお話をして下さいました。
当時はバブル時代の幕開けの頃で、「大きくて立派なもの、豪華なもの」に価値が置かれ、多くの人がそれを目指す、そんな時代でしたから、「最も小さいものに目を向けていく」という言葉がとても新鮮で心に残り、それから教会の礼拝に出席し、聖書の言葉を聞くようになりました。
それまで教会に全く行ったこともなかった私が特別集会へ足を運んだのは、聖書にはどのようなことが書いてあるのかを知りたいと思っていたからでした。
私は高校生の頃から陸上部に所属し、長距離選手として五千メートルや一万メートルなどを走っていました。決して高いレベルではありませんでしたが、走るのが好きでしたから、就職してからも一人でトレーニングを続けて競技会に参加していました。ところが、この年の春から初夏にかけて過激に走り過ぎたため膝の半月板を痛めてしまい、7月の末には全く走ることができなってしまいました。平日でも1、2時間ほど、休日には更に多くの時間を走ることに割いていましたので、一切走れないとなると、とにかく時間が余って仕方がないという状態になりました。どうしたものかと思いましたが、良い機会なのでゆっくり本を読もうと考え、区立中目黒駅前図書館に通って、手あたり次第に本を読みました。
そして8月、9月と色々な本を読むうちに、自分にとって不思議に心に深く響き、長く残る本があり、そのような本の背景には、どこかに宗教的な経験、教え、考え方があるということを感じるようになりました。それで宗教というものに興味が湧き、仏教やキリスト教に関わる本を読み進むうちに、次第にキリスト教の基になっている聖書にはどんなことが書いてあるのか知りたいと思うようになりました。
そんな頃、「恵泉バプテスト教会・秋の特別集会」と書いたチラシが郵便受けに入っており、中目黒銀座商店街のあちらこちらに特別集会の立て看板があるのを目にしました。そして、聖書のことを知るには、とにかく一度教会に行って聖書の話を聞くのが早いだろうと考えて、恵泉バプテスト教会の特別集会に出席しました。
(教会員 Tさん)
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